2017年5月29日
【第一部:開拓編】鋳物屋の基盤を構築 昭和三十八、三十九年
昭和三十八年(一九六三)は未曾有の大雪に見舞われた。いわゆる三八豪雪である。金沢市民の生活が孤立している状況が全国ニュースで放映された。当然工場も二週間余にわたる長期休業に加え、虎の子の軽トラックが雪でペシャンコになる大打撃を受けた。手元資金も無く起業意欲も喪失し廃業を家内に相談したところ、「共に退職までして始めた事業じゃないか。今辞めたら人に笑われるだけだ。身体が残ったのが何よりの資産だ」と叱(しっ)咤された。家内の檄に発奮し、改めて女の強さを知り、ゼロからの再スタートに踏み切った。
根気よく仕事探しに明け暮れた甲斐がようやく現れ始めた。まず富山の日本抵抗器、福井の武田機械(現日本マイヤー)との取引が始まった。
武田機械は当時、自社ブランドとして立フライス盤を作っていて、これがブーム状態だった。機種のモデルチェンジを機に取引の仲間入りをさせてもらうことに成功、これが非鉄の鋳物屋としての本格的なスタートとなった。時に昭和三十八年(一九六三)四月のことだった。
おかげ様で受注量も日ごとに増加し、当然ながら人手不足が生じた。三名を増員して職人は計四名となり、工場は彼らに任せ、私は納品兼営業に専念する日々が続いた。当時、北陸自動車道はもとより国道八号も工事中で開通しておらず、福井通いは専ら芦原街道を、今なら一時間のところを五時間かけて往復していた。
そんなある日、武田機械が繊維機械(レース・ラッセル)の分野に参入するとの情報が入り、設計の方からもアルミの材質等について相談を受けた。
初めて知るレース・ラッセル機は、大きい本体の土台やフレーム以外はほとんどアルミの部品らしく、私はこの時とばかり、大いなる野望と期待を抱いて積極的に営業活動を展開。試作品は採算を度外視して協力した結果、その誠意を汲んでいただき、応じきれないほどの仕事量を確保することに成功した。
ところが、仕事量の増大に伴い今度はうれしい悲鳴で、工場の手狭さが問題となり新工場建設を決意する。昭和三十九年八月、金沢市浅野本町にあった本家の田地約三百坪を借用して、ここに六十坪の鉄筋平屋建て工場の建設に着手した。 時に自分を含め八名の所帯となり、やっと小さいながらも鋳物工場としての格好を整えた。企業としての基盤もでき、事業が軌道に乗った。
武田機械はその後、武田レース、武田マイヤー、日本マイヤーと名前を変えながら大躍進され、国内経編機械のトップメーカーとなられた。当時の故武田実社長はじめ多くの同社の方々から頂戴したご厚情と、非弱だった自分に活力を与えていただいたご恩は、今も忘れることができない。
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