2017年5月29日
【第一部:開拓編】第一次技術改革 昭和四十年代前半
戦後も二十年の歳月が過ぎてようやく世の中も落ち着き、国内産業も本格的な復興期を迎えた。工作機械はベルトからギヤ直結に、モーターはメタルからベアリングへと、すべてが欧米の先進型に変わってきた。また、一般家庭ではプロレスブーム等に乗って、テレビ(白黒)の普及も加速して、景気も一段と活況を呈してきた。
昔からの格言「石の上にも三年」ではないが、昭和四十年ごろから国内の景気が上向き、引き合いも少しずつ出てきた。そんな折、昭和四十二年(一九六七)六月、義弟にあたる石丸義雄(現相談役)が入社、力強い援軍を得た思いだった。石丸君本人は、独立して別の何かをやろうとしていたらしい。早速、これまで多忙に追われ放置しがちだった鋳造技術の改革を決意。当時、県外先進地では低圧鋳造やグラビティ金型鋳造がかなり進んでおり、品質・コスト面で砂型鋳物にないメリットを発揮していた。
そんなある日、友人の紹介で名古屋の工作機械メーカーとの取引を開始、当時、月産三百台以上生産していた旋盤のアルミ製ギヤカバーの製作を地元業者との競争の末受注、名古屋方面への進出が本格化した。
一方、何事も県内同業者より一歩リードせねばと常に考えていた私は、名古屋の商社を通じてグラビティ金型鋳造技術の導入を図った。同社のお世話で第一号の金型鋳造機を購入、この分野へのチャレンジを県内同業者に先駆けて着手、石丸・普照両名に開発スタッフとして挑戦してもらうことにした。未経験分野での挑戦は、二人はもとより私も含めて苦労と根気と努力のいる戦いだった。しかし、これが後にわが社の大きな財産となり、成長の武器として新規取引先拡大に大いにプラスになったことを特記したい。
金型鋳造(グラビティ)の立ち上がりは思ったほど簡単でなく、短期間の指導だけでは到底マスターできるものではなかった。結局、実務作業を繰り返して「コツ」をマスターするしか方法がなく、二人の開発スタッフは失敗を繰り返しながらも一生懸命取り組んだ。しかし、挑戦するにも「種」(案件)がなく、残念ながら自信を持って受注開拓も展開できない。
そこで何か自社製品を開発しようと考えた私は、隔測温度計の生産に着目。前述の丸中機料・中本社長から工場一棟を借りて「アジア計器製作所」をともに設立、この温度計ケース(四インチ・六インチ・十インチ)をいずれもアルミ合金とした。特に数の多い四インチを金型(グラビティ)鋳造とし、これを金型鋳造の初物として手がけるとともに、技術習得の糧とした(第三部技術編参照)。
昭和三十九年から四十二年にかけ、日本経済は高度成長期に入り、東京オリンピック、新幹線開通等の大型プロジェクトもあって好況下に事業も順調に展開した。年間売上も年々増加の一途をたどって昭和四十一年には二千万円を突破、人員も私を含め十名となり、アルミ地金も月十トン前後を使用する状況となった。
お問い合わせ・ご相談はこちら
〒929-1121 石川県かほく市宇気い6番地
TEL:076-283-4222
/FAX:076-283-2544
受付時間:平日8:00~17:00
お問い合わせフォーム