2017年5月29日

【第一部:開拓編】成長と試練のころ 昭和四十年代後半

 先人の言葉に「山高ければ谷深し」とあるが如く、昭和四十年代は前半の躍進に対して、後半は予想だにしなかった大変な時代だった。

 

 まず、私自身が好況と受注先安定の安(あん)()感による気の緩みからか胸部疾患を再発、昭和四十四年(一九六九)の暮れに県立中央病院に入院した。当時の業績は、表面上は順調に伸びていても、内面は劣勢資本と資金需要の増大で苦しい台所事情で、長期間安心して療養できないことは私自身が一番知っていた。しかし、家族や石丸工場長はじめ多くの従業員から「留守中は皆で頑張り乗り切るから、安心して加療に専念してほしい」と言われ、後ろ髪を引かれる思いで入院した。結局、一年二カ月の病院生活を過ごすことになったが、幸い術後の経過も順調で、同四十六年三月無事退院することができた。

 

 入院中、社員が慰安旅行で大阪万博へ行く列車が犀川の鉄橋を通過するのを、病院の窓から見送った。今でも忘れられない風景の一つとなった。

 

 身体も治り、私が復帰すると社内も本来の活気が戻ったが、今度は公害問題という新たな難問が発生した。M社(長野県)からの受注が増加している冷却フィンの鋳造の際に、シェル中子燃焼で発生する悪臭が周辺地域に広がり、住民が迷惑しているという。当時、高度成長の「落とし子」としての公害が社会問題化し始めた時期で、金沢市役所からの二度の勧告に始末書を提出。鋳造を続けるからには公害対策が必須となり、結局、工場の郊外移転を進めることでしか解決の方法が見いだせなかった。これがきっかけで工場の宇ノ気移転構想が立ち上がった。

 

 そんな時、突然起きたのが忘れもしない第一次オイルショックだ。日本中のそれまでの好景気が一変、繊維産業の大不況を皮切りに各分野に連鎖して、機械産業も大幅な転落期に入った。当社の場合、受注ウエイトが大きかった汎用工作機械メーカーの業績不振から受注が大きくダウンした。 悪いことは重なるもので、せっかく金型鋳造に切り替え、量産を期待しつつ納入していた冷却フィンの発注元M社が突然倒産し一千六百万円の損害を(こうむ)った。これは当時の四カ月分の売上に相当する大打撃だった。当社にとってはオイルショックによる不況と二重の重荷となり、内心、存続の危惧すら感じる状況に落ち込んだ。

 

 崖っぷちに立った思いで、金融機関の支援を仰ぐとともに、工場は石丸工場長に任せて私は連日泊まり込みで債権回収に専念した。その結果、M社社長の個人資産である土地が東京都内に若干あるとのことで、これを売却すればかなりの回収が見込めるとの情報を得た。結局、債権分配までに一年あまりの期間を要したものの、運よく八割ほどの回収に成功し、何とか切り抜けることができ助かった。

 

 そして当社の場合、何よりも幸運だったのは、M社の倒産によって、それまでM社を通じて納品していた冷却フィンが、最終納入先である富士電機松本工場と直接取引ができることとなったことだ。まさに「災い転じて福となる」である。これを機に、富士電機との取引も松本・東京・千葉・神戸の各工場へと拡大し、オイルショックの不況を乗り切る大きな原動力となった。また、鉄が主体の素材型産業から半導体主体のエレクトロニクス産業にうまく乗れたのも、先進地との取引で情報の先取りが効を奏した結果だった。

 

 当社にとって昭和四十年代は前半躍進、後半どん底の波乱の大きい時代であった。苦しいこともいろいろあったが、幸運にも新しい流れに乗ることができた十年であったと言える。

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