2017年5月29日

【第一部:開拓編】公害問題解消へ工場移転を決意 昭和四十年代後半

 第一次オイルショックによる影響もようやく落ち着き出したころ、次第に公害問題が社会問題化した。街なかで鋳造や鍛造を営んでいる者は、ばい煙・残土・悪臭等の対応を迫られ、住民の苦情がマスコミで問題にされた。当然ながら行政も企業も、今までのように悠長な考えでは世間に通らなくなった。何らかの対応を講じなければ事業の存続すら危ぶまれ、工業団地(集団化)の造成や山間部への工場移転が各所で頻繁に行われたのもこのころだった。

 

わが社の場合も前述の通り、昭和四十六年(一九七一)ごろから悪臭公害で市役所の勧告を二度も受けた。既にその時、河北郡宇ノ気町(現かほく市)に造成中の工業団地への移転を決めていて、オイルショックによる景気の落ち込みの中だったが、進出計画を中断することもできなかった。工業団地協同組合を通じて行政当局の所定のヒアリングを受け、昭和四十九年十二月、新工場(現在地)の建設に着手した。同時にこれまでの「岡田合金鋳造所(個人経営)」から資本金七百万円の法人とし、社名も「オカダ合金株式会社」と変えた。

 

 ところが、再び中東産油国の輸出規制が生じ、石油不足、物不足、物価暴騰によるインフレ、不景気による操業短縮や失業者の増大等、前回を上回る大不況。特に燃料(重油)と原料のアルミ地金の入手は困難を極めた。業者は実績による割り当て分しか売ってくれず、そのため得意先には大幅な納期遅れとなった。市民生活もトイレットペーパー騒ぎなどが起こり、国内経済は一時、完全にお手上げ状態が続いた。

 

 物不足による打撃は同業他社も同じであり、この時初めて連日寄り集まり、危機打開のために作ったのが、現在の石川県合金鋳造工業協同組合だった。上部組織の団体である日本非鉄金属協会へも加入し、通産省(当時)への嘆願や仕入れの共同化等を行ったことなど、今日の物余り時代には到底考えられない思い出となって、今なお強く頭の片隅に残っている。

 

 新工場の建設は前述の通り不況下で強行した。当時、自己資本劣勢は否めずかなりの冒険だったが、行政当局の深いご理解と関係金融機関をはじめとする多くの取引先各位の温かいご支援により予定通り進めることができた。

 

 建設後は、過剰投資による経費増大をいかに吸収し、どのように健全な企業活動を続けていくかが、私に与えられた大きな課題であり責任だった。当然ながら全社員にも新たな決意を促した。

オカダ合金ヒストリー

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