2017年5月29日

【第一部:開拓編】Vプロ・金型フル稼働の売り手市場 昭和五十年代後半

 「ピンチの後にチャンスあり」と言われる如く、長く苦しいオイルショックの荒波を乗り越えた日本経済は、再び高度成長へと向かった。当社では金型鋳造・Vプロ鋳造ともに軌道に乗り出し、これを二枚看板として営業活動を展開した。これが功を奏して、富士電機川崎、東芝大阪(協和マシン経由)、コパル塩尻等の大手をはじめ、信濃電気、泉精器、日新興業等との取引が新たに始まった。

 

 当然ながら品質保証体制の確立や原価計算制度の徹底が義務づけられ、これをマスターすることが取引条件となった。またアルミ地金(インゴット)をはじめとする副資財の価格が景気の好転とともに急上昇し、特にアルミインゴットは過去最高値(1トン当たり四十万円超)となった。受注量の増加はうれしいものの採算割れでは困るので、営業活動は専ら価格見直しのお願いだった。

 

 ある日、得意先と担当者との間で「(売価を)上げる、上げない」の口論となった。

 

どちらがお客さんかわからないといった時期で、上司の仲裁でようやく収まったほどの売り手市場だった。時の担当者(富士電機・飯島氏)とはこれがご縁で親しい間柄となり、長くご交友を続けることになった。残念ながら病で亡くなられたが、心からご冥福を祈っている。

 

 一方、当社が所属している鋳鍛造工業団地も前述の倒産企業による後遺症が大きく残り、連日、残存操業各社とその対応に追われる日々が続いた。そんなある日、前理事長の後を継ぎ、三代目の理事長に私が選任された。昭和五十八年(一九八三)四月のことだ。

 

 大変な職責を負うことになった。肩書は「理事長」だから外面(そとづら)は良いが、現実は赤字組合の「残債整理委員長」。理事であり、連帯責任を避けて通るわけには行かなかった。私はまず自社の健全化と団地内企業同士の結束を図って集団(協同組合)で事に当たることにし、長期にわたる解決策を講ずるしか方法がないと考え、関係機関へ償還を長期にしてもらうことを懇願した。幸い関係機関より私どもの事情や立場をご理解いただき、格別のご配慮とご協力を得ることができた。その間に団地内遊休地の売却、生き残り企業の生態挽回を進め、対外信用の回復を図ることに専念した。

 

 その結果、「人の噂も七十五日」という如く、日が経つとともに各企業は失いかけた信頼を取り戻し、また団地内には新しい企業の参入もあって、宇ノ気町の中核的工業団地として、町当局はもとより広く県内外の上部団体からも注目される存在となり、心から感謝するとともに大変喜んだ。

 

 昭和五十八年十二月、コパルとの取引が始まった。同社の塩尻工場(現日本電産コパル塩尻事業所)でのミニ・ラボ(写真現像機)生産に当たり、その下請協力グループに参加することになった。場所が長野県だったので地元同業者とは距離的なハンデはあったが、当社の看板であるVプロセスとグラビティを前面に出し強力に営業活動を展開して、塩尻工場でのミニ・ラボ第一号機からの受注に成功した。 当時、名古屋方面の複数の工作機械メーカーからの受注がめっきり減っており、当社にとっては渡りに舟だった。何度かの試作や設計変更の末、ようやくミニ・ラボの量産態勢が固まった。

 

 コパル塩尻事業所との関係が生じたことから俄然長野通いが多くなり、既に取引があった富士電機松本工場、泉精器(松本市)などへの納品も加わって、一時期は同地域への納品が月産量の半分を超えることも度々あった。また同五十九年ごろからコパル塩尻工場内の別事業部で、松下電器産業(現パナソニック)のOEM(相手先ブランド生産)として生産している電子部品実装機のアルミ鋳物部品も手がけることになり売上も急上昇した。

 

 このような経緯で、昭和五十年代後半は前半の反動からか景気も好調に推移、物価高が続いたが、当社にとってはコパルとの大口取引が増加、Vプロセス、金型(グラビティ)がフル稼働して大幅な業績伸展へとつながった。

 

オカダ合金ヒストリー

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