2017年7月13日

【第三部:技術編】技術と製品でたどる半世紀 【取締役相談役 石丸 義雄】

金型鋳造へのチャレンジ 昭和四十二年

 

 「不自由を常と思えば不足なし」徳川家康の訓ではないけれど、不自由が当たり前とするか、何とか少しでも良い方へ向かうか、この訓から二つのことが読み取れる——

 

 昭和二十九年(一九五四)、私は金沢市立工業高等学校機械科を卒業した。すぐ就職した機械メーカーで自分が設計した鋳物素材の調達に自分自身が携わるなかで木型屋さん、鋳物屋さんに出入りして、型の作り方、鋳物の作り方を見習い、教えてもらった。当時の鋳物工場では金沢近郊の森本で産出する砂(昭和砂と称していた)を主に使用して鋳型を成型していた。鋳物屋は、受注数量分を砂で造型して溶融金属を流し込み、冷却固形後、造型した砂型を破壊して鋳物を取り出すことの繰り返しである。これは、砂を使って鋳物の造型をしていた古代から奈良の大仏の造営を経て現在に至るまで基本的に同じである。

 

 せっかく造型した型を壊して製品を取り出すのを見ていて、熟練工が汗を流して作った砂型を壊さねばならないことにやりきれないものを感じていた。

 

 ここで十三年間、設計、現場機械加工、仕上組立、資材の調達など中小メーカーならではの多くの職種を経験、勉強した。

 

 折から、義兄(岡田欣一現会長)がアルミ鋳物の鋳造業を立ち上げたところであり、新しい鋳造の方法としての金型鋳造を模索していたところであった。これは、砂で造型する代わりに鉄で型を作り、繰り返してその型に湯(溶融金属)を流し込み鋳造する方法で、グラビティ鋳造=重力鋳造(自重重力による溶湯の金型へ流し込む鋳造)である。

 

 金型鋳造、グラビティと言葉は聞いてもその実態は見たことも無いまま、山砂を使って鋳造している工場の横に十五坪の工場を建て増しした。名古屋の商社から横型空圧開閉式の鋳造機を購入し、とにかく金型鋳造ができるような形を作ったのは昭和四十二年(一九六七)六月。私の鋳物屋としての出発点である。 建物、設備がそろっても急に仕事があるはずはないし、鋳造に関しては全くの素人なので砂型鋳造の手伝いをしながら、砂に造型すること、インゴットの溶解、型への注湯、その後の製品取り出し、砂の処理(水分補給、砂練)、帯鋸作業、サンダー仕上げなど、体に鋳物の特性を覚えさせることに熱中した。

 

 砂型鋳造でアルミ合金の鋳造をしていたが、銅合金も取り扱っており、溶解炉二基同時にアルミと銅を溶解鋳造したこともあった。しかし、銅合金の溶湯にアルミ断片が少しでも入り込むとその銅合金は不良となるので、銅合金の鋳造はやめてアルミ合金のみ扱うことにした。

 

 当時、アルミ鋳物に対する世間の評価は低く、アルミなら何でもジュラルミン、略してジュラと言い換えている機械屋さんもあったし、材料仕入れ先もいいかげんなインゴットをJIS規格(日本工業規格)のAC2B相当品として扱っていた。たしかに戦争が終わってしばらくは、戦闘機の残骸などを材料に、ジュラルミンに鋳造性を良くする(けい)()を添加して再溶解すれば成分的にAC2Bに近いものができた。

 

 戦後復興期、成長期を迎え景気が上向き、名古屋方面の工作機械メーカーから、旋盤、フライス盤のベルト、ギヤカバーの注文が殺到し、熟練の職人が山砂で造型、AC2B相当品で鋳造、機械加工して自家用トラックで一週間に一度名古屋へ納品に走った。金沢から国道八号線経由で米原、そこから名神高速道路に乗り小牧で降りてメーカーで荷を降ろしてとんぼ帰りしていた。冬は敦賀の山越え渋滞に備えて毛布と魔法ビンにいっぱい熱いお茶を抱えて走り、帰り荷に日本軽金属の幸田工場からインゴットを積んできたこともある。

 

 砂型鋳造は順調に進んでいる一方、新技術となる金型鋳造は文献をあさり、ときにはロシア語の翻訳本を見ながら手探り状態で進めた。現会長の努力で直径四インチの温度計のケースの注文を受け、名古屋から購入したダイカストマシンを模倣した機械で鋳造することにした。ダイカストの鋳造方法ならばよいのではないかと考え、ダイカストの型を手がけている近所の精密金型製造会社に型を作ってもらって注湯するのだが、型の保守管理、取り扱い、加熱保温、塗型など何をするにしても初めてのことばかり。手さぐり状態ながら何とか形になったが、今振り返れば反省することしきり、失敗の連続であった。

 

 

オカダ合金ヒストリー

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